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コーデックス/アラブの反乱
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1916年~18年、アラブの反乱

アラブの土地の多くが、オスマン帝国の軍事力と官僚機構により支配され、地域の自決権が抑圧されているというのが、アラブの反乱の考えであった。同時に、例えば主要都市であるダマスカスやアレッポの外に住む人々にとって、「シリア人」というのは馴染みのない概念であった。多くの小さな町や村では、国家の枠組みや人工的な国境ではなく、家族や伝統、文化により、自分たちを定義していたのである。


フサインはパレスチナ、全アラビア半島、メソポタミア、シリアを含む、統一された汎アラブ帝国の成立を夢見ていた。強い力を持つアラブのカリフがヨーロッパとトルコの資本による経済的圧力に対抗し、豊かな油田の恵みをアラブの人々のために保護するというのが、その考えであった。


イギリスからの軍事支援の見返りには将来の商取引における優遇を考えていた。イギリスは、アラブの反乱がオスマン軍の裏庭での攪乱につながり、イギリスのスエズ運河の守備とバグダッド攻略への圧力を減ずることになることから、反乱への支援に同意した。


エジプト派遣軍の野砲、機関銃、10万ポンドを超える金、ライフル5千丁を提供する約束であった。さらにT・E・ロレンスが派遣され、反乱に同道し、戦略的助言を行うことになった。


しかしイギリス政府は、この地域における自国の経済権益を侵しかねない、統一されたアラブ国家の成立は支持していなかった。そして、フランス、ロシアと秘密交渉を行い、オスマン帝国が破れた暁には、新しい各国の勢力圏に従い、その領土を分割することを話し合った。そのような協定の一つが、1916年5月に結ばれたサイクス・ピコ協定で、今日に至るまで、この地域の未来に影響を及ぼし続けている。

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