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東部戦線と突撃戦術

1916年6月4日、ロシア帝国軍の南西戦線の司令官であるアレクセイ・ブルシーロフ将軍は、ガリツィアでオーストリア=ハンガリー軍に対して大規模な攻勢に出ました。この攻勢は革新的な突撃部隊と浸透戦術が初めて大規模に運用された戦いの一つであり、オーストリア=ハンガリー軍の防衛の弱点を突いた攻撃により突破口を開くことに成功しました。ドイツ軍をはじめとする他の軍は、後の攻撃において、このロシアの浸透戦術を手本とすることになります。


ブルシーロフ攻勢は世界史上最も凄惨な作戦として知られ、第一次世界大戦中の作戦では唯一、司令官の名前を冠しています。この攻勢によりオーストリア=ハンガリー軍は1916年9月までにカルパティア山脈まで後退することとなりましたが、他のロシア帝国軍司令官との連携が進まず、オーストリア=ハンガリー軍を完全に戦いから排除するには至りませんでした。戦術的には大成功だったにもかかわらず、ロシア帝国の犠牲者は100万人に上り、さらに同盟国に対する決定的な勝利をもたらさなかったことがロシア人民を失望させ、革命に傾倒する契機となりました。皇帝ニコラス二世は1917年の2月革命後退位し、政権を引き継いだケレンスキーの臨時政府は11月にはレーニン率いるボリシェヴィキに打倒されました。


ロシアは主にボリシェヴィキの赤軍と、それに対立する白軍と白軍を支持する多国籍の勢力による極めて凄惨かつ膨大な犠牲を伴う内戦に突入しました。赤軍対白軍の主要な戦いの一つは、ヴォルガ川沿岸のツァーリツィンの街をめぐる1918~1920年の攻防です。内戦中、ツァーリツィンの支配は度々変わり、1919年6月にはイギリス軍のユエン・キャメロン・ブルース少佐がMark V戦車で突破口を開き、白軍が一時的に同都市を占領することとなりました。


しかし、1920年1月には、スターリンの指揮により赤軍がツァーリツィンを奪還し、白軍の残党はクリミア半島へと退却を余儀なくされました。1925年、ツァーリツィンはスターリングラードと改名され、第二次世界大戦では再び包囲され、史上最も凄惨な戦場の一つとなりました。

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