コーデックス/赤き津波 のバックアップソース(No.1)
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''赤き津波''

In the Name of the Tsar
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ボリシェヴィキ政府に対する最大の軍事的反抗は、元ロシア帝国軍将軍アントーン・デニーキンとピョートル・クラスノフによりドンバス地方でなされた。ロシア白軍に与して戦ったクラスノフのドン軍はよく訓練されており、45,000の精兵に機関銃600丁、大砲150門を備え、重要な戦略拠点であるツァリーツィン市に狙いを定めていた。大きな鉄道拠点、街道の接続、通信網を備えたツァリーツィンは、工業生産力もさることながら、コーカサスの北部全域を治める都市であった。1918年秋、ロシア白軍が南から攻撃する中、ドン・コサック軍は北に位置して、都市のモスクワとの連携を絶った。ボリシェヴィキの赤軍はヴォルガ川の西岸へと追い込まれたが、都市を明け渡すことを拒んだ。ヨシフ・スターリンとクリメント・ヴォロシーロフの率いる軍事委員会は、市内の労働者を動員し、複数の塹壕線と鉄条網からなる防衛線を築いた。白軍は幾度も攻撃を繰り返したが、その守りを破ることはできなかった。両軍ともに援軍を得て、戦いは1919年まで続いた。赤軍の「鋼鉄の師団」が北から突破する中、白軍は装甲列車「ロシア統一」とイギリスからの戦車派遣隊をもって戦力を強化した。戦車部隊により都市は陥落間際となり、市の中心に1台の戦車がたどり着いたが、燃料をはじめとした補給の不足により、それ以上の前進は成し遂げられなかった。1920年、都市を守る赤軍は、ついにモスクワからの増援を得て解放され、その勢いをもって白軍を完全に市内から追放した。スターリンの都市の防衛にかけた決意を称え、ツァリーツィンはのちにスターリングラードへと改名されている。



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