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''M1897ショットガン(エリート)''


アメリカ政府は1918年に2万丁近いM1897ショットガンの発注を行い、さらに数千丁が民間モデルから転用されたと考えられている。他にも数種のショットガンが前線に配備されたが、その数は少なく、圧倒的な数を誇るM1897は第一次世界大戦におけるアメリカのショットガンの代名詞ともなった。M1897の活躍は多くの伝説に語られている。ある戦後の記事では、1人のアメリカ軍将校と彼の守備する塹壕へのドイツ軍の大攻勢が取り上げられている。アメリカ兵の部隊はドイツ兵が十分に近づくのを待ってから、200丁のショットガンをもって一斉に攻撃を開始した。「攻めてくる敵の最前列に、無残に鹿撃ち弾で穴だらけにされた死体が積みあがった」と記されている。ローレンス・ストーリングスの著作「The Doughboys」では、シカゴ生まれの軍曹が激しい銃撃を受けながらドイツ軍のコンクリートバンカーを襲撃した様子が描かれている。軍曹はバンカーの裏の入り口から突入し、「バックショットを2発、それで23人の敵兵が動きを止め、降参した」とある。また別の伝説では、1918年9月27日、フレッド・ロイド軍曹が“M97 Trench Gun”を装備して単身ドイツ軍占領下の村に挑んだ。ロイド軍曹はポンプアクションを繰り返しながら手際よく村を制圧していった。そして30人のドイツ兵を追い散らした後、ようやく疲労によって崩れ落ちたのである。

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1918年6月の段階で既にドイツの新聞が「ショットガンの残虐性」を取り上げ、ケルン・ガゼット紙は「トマホークと皮剥ぎナイフが使われだす日も近い」と述べている。これに対しアメリカの世論はドイツ軍は毒ガスを使用し、鈍器を振るっていると指摘を返した。1918年の戦いでドイツ軍はM1897を装備したアメリカ兵を数名捕らえ、ついに1918年9月19日、ドイツ政府は外交ルートを通じてアメリカ軍のショットガンの使用はハーグ陸戦条約に反するとの公式な抗議を行った。アメリカ兵捕虜が「かかる武器とその弾薬を所持していた場合、その生命は保証されない」と脅したのである。9月26日、アメリカ政府はこの抗議に対し、ショットガンの射撃は榴散弾やフラググレネードによる攻撃と同類であり、他の合法と見なされる武器に比べて特に残虐とは言えないと回答した。さらに先の脅しを実行に移した場合には報復に出るとも通告した。第一次世界大戦はこの回答より6週間後に終結したが、ドイツ軍がショットガンを所持していた捕虜を処刑したとの記録は一切ない。

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