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''ガリポリ作戦''
Turning Tides
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第一次世界大戦におけるオスマン帝国初の大規模な会戦、1915年1月のロシア軍とのサルカムシュの戦いで、オスマン軍は歴史的な大敗を喫し、イギリスが後に、コンスタンティノープルを制圧してオスマン帝国を大戦から取り除くことは容易と考える要因となった。あまりにも容易いとみられたため、1915年のダーダネルス海峡攻略作戦は、「マルマラ海クルーズ」と呼ばれたほどであった。しかし、実際のガリポリ攻勢は失敗に終わり、イギリス軍歩兵部隊は幾度となく窮地に立たされ、数十万の犠牲者と8か月におよぶ戦いの末、攻勢は中止とされた。そして、わずか数か月後に、ティグリス川沿いのクート・エル・アマラの砦で、イギリスの一軍が丸ごとオスマン帝国に投降を宣言するにおよび、イギリス軍、“大英帝国”、そしてダーダネルス海峡攻略作戦の旗振り役であったウィンストン・チャーチルでさえも、オスマン帝国は容易い獲物などではなく、最新装備を備えた敵は等しく脅威であると認識するに至った。チャーチルはダーダネルス海峡攻略作戦での責任を厳しく問われて海軍大臣を辞任し、西部戦線に従軍して大隊長となった。二度にわたる軍事作戦の失敗はイギリス全体の士気を著しく下げ、軍最高司令部は現代の戦争において、思い上がりは敗北を招くということを学ぶことになった。一方のオスマン帝国では、士気が著しく高まり、ガリポリで指導力を発揮した新たな国家的英雄ムスタファ・ケマルを中心に帝国が団結した。ムスタファ・ケマルは後のアタチュルク、トルコ建国の父にして初代大統領である。しかし、イギリスは失敗から学び、1917年から1918年にかけて中東で大きな成功を収めることとなった。

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