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''セルの戦い''


第一次世界大戦の最終幕となった百日攻勢は、1918年8月8日のアミアンの戦いに始まり、11月11日の停戦まで続いた。それは連合国軍の度重なる進攻に対し、ドイツ軍がじりじりとフランスから追い出されていく過程であった。ドイツ軍は百日攻勢を通して頑強に抵抗を続け、両陣営での犠牲者の数のからみても、決して継戦能力を使い果たした状態ではなかった。しかし、アミアンの戦いの結果、ドイツ軍は堅固に守られたヒンデンブルク線への後退を余儀なくされた。1918年の初めにカイザーシュラハトの大攻勢の起点となった場所である。9月後半、連合国軍の総司令官フェルディナン・フォッシュは、進撃の勢いを保ちヒンデンブルク線を突破するため、新たな“大攻勢”を発令した。フランス軍とアメリカ軍によるムーズ=アルゴンヌ攻勢、イギリス軍による第二次カンブレーの戦いがそれである。ドイツ軍は計画的な撤退を開始し、セル川沿いに新たに強固な防衛線を築いた。西部戦線における戦いは、やや流動性を回復し、塹壕やこれまでの戦場を越えた開けた土地での戦いが主流となっていった。10月17日、イギリス軍はセル川を越え、ドイツ軍の補給線の要であるウルノワの鉄道拠点を砲撃の射程に収めるべく新たな攻勢に着手した。午前5時20分、移動弾幕射撃による砲撃で攻撃が開始され、歩兵隊と48台の戦車が後に続いた。イギリス軍は、折からの霧にまぎれ木板を使って渡河すべく、川幅のもっと狭い場所を狙った。ドイツ軍はこれに激しく抵抗し、鉄道線のカトー=ヴァシニー線の周囲で特に激しい戦いとなった。しかし、その日の終わりまでにイギリス軍は3kmを超える前進を成し遂げ、ふたたびドイツ軍は後退を強いられた。セルの戦いは10月26日に終了し、その翌日、皇帝からの圧力により、エーリヒ・ルーデンドルフ参謀本部次長は辞職を余儀なくされた。連合国軍の進撃は速度を増し、第一次世界大戦の終わりとなった11月11日、イギリス海外派遣軍が、さかのぼること4年前、大戦最初の大規模な会戦地となったベルギーの都市モンスを解放した。


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