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''ソンム川''
Apocalypse
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この作戦は当初、西部戦線におけるドイツ軍の主導権を奪うことを目的とした、仏英合同作戦として計画されていました。しかし1916年に入ると、イギリス軍総司令官ダグラス・ヘイグ元帥は、フランス軍の負担を軽減させる必要に迫られました。フランス軍は、ヴェルダンでドイツ軍の攻勢を食い止めなければならなかったためです。東部戦線とイタリア戦線における連合国の攻勢と同調して新たに攻撃を仕掛けることで、中央同盟国は前線から前線へと援軍を送りづらくなり、やがて決定的な戦果が挙げられると考えられました。西部戦線ではイギリス軍から13個師団、フランス軍から5個師団が選ばれ、ソンム川の両岸に構えるドイツ第2軍を攻撃しました。6月24日、1,500門の大型砲と榴弾砲による激しい準備砲撃は、ドイツ軍の陣地を壊滅させるものと期待されていました。しかし実際はぬかるんだ地形のせいで砲弾が十分な効果をあげず、ドイツ軍の有刺鉄線を切り裂くこともできなかったのです。7月1日、英仏両軍の兵士は前進を開始しますが、ドイツ軍の守備兵力は退避壕から顔を出しては銃撃を加えてきます。フランス軍によるソンム川南岸のドイツ軍陣地への奇襲は成功しますが、北部のイギリス軍は堅牢なバンカーや有刺鉄線によって足止めされ、警戒していた防衛部隊によって甚大な被害を被りました。わずかばかりの土地を激しく争い、幾度にもわたる攻勢を受けたドイツ軍は、ヴェルダンからソンムへと援軍を送らざるを得ませんでした。その結果ソンムは血なまぐさい消耗戦の舞台となったのです。イギリスからは新兵器であるマークI戦車が送りこまれ、敵を驚愕させ、戦局を一変させることが期待されましたが、信頼性が低く大きな戦力にはなりませんでした。11月18日、冬の到来とともに会戦は終了。60万人の死傷者を出した連合国側の前進距離はわずか12kmほどでした。
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