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''ブルシーロフ攻勢''

In the Name of the Tsar
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アレクセイ・ブルシーロフ将軍は、東部戦線の南半分に配されたロシア4個軍の司令官に任命されたばかりであったが、その時すでに、1916年夏に西部戦線で開始されるイギリス軍とフランス軍の攻勢に合わせた中央同盟国側への攻勢を計画していた。他の将軍に比べ、軍才に恵まれるとともに攻撃的であった将軍は、ガリツィアの地で、疲弊し力を弱めていたオーストリア=ハンガリー軍に決定的勝利を収めることを画策した。参謀に、かつてない規模での砲兵隊への弾薬補給や、極めて詳細な地図と敵防備の正確な情報の用意を命じただけでなく、まったく新しい突撃兵戦術の導入も計画した。6月4日、大規模な一斉砲撃がオーストリア=ハンガリーの防衛線を揺るがし、陽動攻撃が防衛部隊を混乱に陥れた。ハンドグレネードを装備し機関銃の援護を受けた突撃兵が、爆破しつくされた敵の塹壕を突破し、その後を後続部隊が埋める形となった。これが400kmに及ぶ前線の全域で行われ、総退却の末、オーストリア=ハンガリー軍は崩壊するかに見えた。ブルシーロフ将軍は、ドイツ軍が南下しオーストリア軍を支援しないよう、北部ロシア軍の司令官らにも攻撃をうながしたが、北部の司令官たちは行動を繰り返し遅らせ、あと一歩のところまで追い詰めた敵に、ドイツ軍が手を差し伸べることを可能にしてしまった。ブルシーロフ攻勢はロシア軍にとり大きな勝利となったが、両陣営の犠牲者は合わせて200万人近くにまで及び、第一次世界大戦におけるもっとも壮絶な戦いとなった。しかし、オーストリア=ハンガリーを大戦から取り除く最善のチャンスは逃すことになったのである。


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