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''ロシア軍の参戦''

In the Name of the Tsar
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1914年のロシアは、1904~1905年の日露戦争での屈辱的な敗北と1905年のロシア第一革命における多数の労働ストライキにより受けた傷からいまだ回復しておらず、ツァーリの敷く帝政の根幹を揺るがしていた。専制的な皇帝ニコライ2世は、すでに時代遅れと化していたロシアの政治システムの改革を望まず、貧しく抑圧された大多数を占める民衆と、ブルジョワジーと地主貴族からなる少数の資産階級との間の差が広がり続けていた。しかし外敵の出現は、ロシアをふたたび一人の指導者のもとに結束させるかと思われた。汎スラヴ主義の台頭と、バルカン半島への関与を深め、黒海、そしてコンスタンチノープルへと手を伸ばそうとするロシアの対外政策は相性の良い関係にあった。このロシアの地政学的野望は、当然のごとくオーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国の利益に反するものであった。ロシアには1億7千万近い人口があったが、そのほとんどは農業生活者であり、国家全体の工業化には外国からの協力と投資が欠かせなかった。ドイツがオーストリア=ハンガリーとの結びつきを深めるためにロシアに背を向けたことで、ロシアはフランスと経済協定を結ぶこととなり、やがてこれは両国の軍事同盟へと発展した。これらの同盟関係は、ロシアとオーストリア=ハンガリーがバルカン地方をめぐり争った場合、フランスとドイツも必然的にその争いに巻き込まれることを意味していた。カイザー・ヴィルヘルム2世とニコライ2世は皇族として従兄同士という近いつながりを持ちながらも、ひとたび戦争へと動き出した事態の流れを止めることは、もはや不可能であった。


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