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''塹壕における酒類''
Apocalypse
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西部戦線の塹壕において、アルコールは、ドブネズミや泥土、伝染病とともに日常の存在であった。前線のイギリス兵には、毎日一人当たり70mlのラム酒が配給されていた。前線では毎日であったが、後方では週2回の配給であった。知恵の回る上官は、ラム酒を利用して士気を高めた。特に危険な任務に臨む部下への配給を倍にすることで、兵士たちのやる気を引き出したのである。ロシアが大戦に向けた動員を開始すると、皇帝ニコライ2世は、ウォッカの販売と消費を禁じた。これは1904~1905年の日露戦争において、酒に酔ったロシア兵が風紀と規律を乱したことを受けての判断だった。皇帝は、酒に酔った兵士たちが、動員に遅れを生み出すことを強く恐れたのである。しかし禁酒令には副作用もあった。何より大きかったのは、税収が大幅に落ち込んだことである。一方、ロシアの同盟国であったフランスは、軍でのアルコールの扱いにより柔軟な姿勢を示し、1914年、当初は水のみであった配給から、同年9月に日々のワインの配給を開始するまでに変化している。このワインにはさまざまなニックネームが付けられたが、その中でも最も良く知られている呼び名が「ピナール」である。質の低いワインであったが、兵士たちには強く愛された。フランス軍での1日のピナール・ワインの配給量は250mlで、前線での戦闘が激化するにつれ、その量は増やされていった。兵士であれ、士官であれ、アルコールは、塹壕の過酷さをわずかといえども和らげてくれる存在であった。
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塹壕配備中や任務中に飲酒が見つかった兵士には、多くの場合、「第一種戦地懲罰(Field Punishment No.1)」と呼ばれる懲罰が課せられた。これは、支柱や大砲の車輪に1日に2時間の間、縛り付けられる罰であった。上官はこの懲罰を最大28日間までの範囲で命ずることができ、軍法会議による処分では最大90日間の懲罰が可能であった。軍法指示書には、戦地懲罰では一切身体を傷つけてはならないと記されていたが、当時において、虐待や行き過ぎた懲罰は決して珍しいものではなかった。1917年1月、イギリス戦争省は新しいガイドラインを発行し、その中には水彩スケッチによる、“正しい第一種戦地懲罰の適用例”も掲載されていた。また、懲罰を受ける兵士に後遺症が残らないように、ロープで手と足を縛る際の注意事項も記されていた。
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