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''塹壕強襲兵''

1914年の終わりに西部戦線が塹壕により膠着すると、それ以降兵士には敵前線を間近にした場所で変りばえしない退屈な毎日を過ごすことが求められた。この結果、互いが互いを生かす「相互生存保障」、すなわち両陣営の間に無言の停戦協定のようなものが生み出され、生存率を高めるために不要な刺激が最小限に抑えられるようになった。しかし、軍の司令官は兵士を戦わせたいのであり、「相互生存保障」は戦争目的遂行への大きな脅威とみなされた。この相互保障を破たんさせるため、司令官たちが緊張をエスカレートさせるとめどない攻撃策として編み出したのが塹壕強襲作戦である。

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塹壕強襲は慎重に計画された小規模な攻撃で、多くは夜間に10~200人をもって行われ、敵兵士の捕縛や殺害、貴重な装備の破壊や奪取、情報収集のための敵士官の誘拐や地図などの重要文書の確保、今後の大規模な攻勢の予兆を探るなどのいくつかの作戦目標が設定されていた。また敵兵士への妨害活動により敵の士気を害する効果もあり、計画通り、止むことのない攻撃により「相互生存保障」はすぐに崩壊することになった。

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塹壕強襲に参加する兵士は、コルクを焼いた炭で顔を黒く塗り、さまざまな迷彩で身を隠して中間地帯を這って進んだ。音を立てずに鉄条網に穴を開け、障害物を潜り抜けて敵の歩哨に忍び寄り、静かに息の根を止めた。そして作戦目標を達成すると、敵に最後まで気取られないことを期待しつつ、捕虜やその他の戦利品を抱えて、すぐに味方の前線へと引き返した。時には、襲撃部隊が去った後に敵の掩蔽壕が吹き飛ぶよう、時限式の爆薬が仕掛けられることもあった。

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この隠匿性を重視した近接戦で、塹壕強襲兵はピストルやリボルバー、ショットガンのようなコンパクトな銃を使うことを好み、グレネードを収めた背嚢を持つことも多かったが、最も重用されたのは格闘武器であった。塹壕強襲兵は剣やメイス、棍棒、手斧、ナックル、研がれた塹壕スコップなどを装備し、第一次世界大戦に中世の戦いを蘇らせた。鎧さえも復活し、両陣営で多種多様な型が試された。鎧は主に歩哨と機関銃手での使用が想定されていたが、塹壕強襲兵もやや軽量の物を用いた。

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世界中の軍事専門家が日露戦争を研究し、柔術を身に着けていたことが塹壕戦で日本兵に優位をもたらしていたと知ると、第一次世界大戦を前に多くの軍隊が格闘技を訓練に取り入れ始めた。塹壕強襲作戦ではボクシングやレスリング、フェンシングを含めた格闘技術がさらに重要性を増すこととなった。1916年までに大戦参加国のすべてが無手戦闘術の訓練と教本を備え、フランス軍は柔術とフランスの民間格闘術サバットに基づく当時有数の高度な教練課程を有していた。

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また塹壕強襲作戦での潜入と近接戦闘の重視は、全大戦参加国で突撃歩兵戦術に影響を与え、イタリアのアルディーティは中世のフィオレ・ディ・リベリの白兵戦教本をその身に叩き込んでいた。塹壕がもたらした格闘術の知見は現代の軍隊格闘術の基礎を形作ることになったのである。




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