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''血と砂''

1914年10月29日にオスマン帝国が第一次世界大戦に参戦すると、大英帝国は保有油田と関連施設を保護するため、イギリス艦隊とインド兵をペルシャ湾岸のファオ要塞攻略に送り出した。11月8日にファオを陥落させたイギリス軍は、オスマンからさしたる抵抗を受けることなくティグリス川沿いに前進を続け、翌年9月末にはバクダッドの南200kmに迫るクート・エル・アマラの町を制圧した。
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度重なる勝利によりオスマン軍を脆弱と見た連合国軍は、1915年2月19日、艦隊をもってダーダネルス海峡を攻撃し、オスマン帝国の首都コンスタンティノープルへの道を開こうとした。しかし、連合国艦隊は数艦がオスマンの機雷と沿岸砲台により撃退、撃沈されるなどし、海峡の通行の安全は、4月25日、ガリポリ半島に上陸した連合国軍歩兵によって確保された。オスマン軍の頑強な抵抗により、ガリポリ半島をめぐる戦いは8か月におよぶ膠着状態となり、連合国軍は1916年1月、ついに半島から撤退することとなった。
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メソポタミア戦線では、イギリスはバグダッドを楽に制圧できるものと考えていたが、1915年11月末にクテシフォンの町で敗れ、クートへの撤退を余儀なくされてしまった。オスマン軍はクートを囲んで攻囲戦を展開、幾度かにわたるイギリス軍による解放の試みも失敗に終わると、クートのイギリス軍は1916年4月29日に投降を宣言した。このガリポリに続く、オスマン軍に対する2度目の大敗は、大英帝国に衝撃をもたらした。
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イギリス軍は翻ってエジプトの部隊を増強し、ヒジャーズでのアラブの反乱にも助けられつつ、1916年を通して、スエズ運河からオスマン軍をさらに遠ざけてシナイ砂漠へと後退させた。1917年11月の頭、イギリス軍はガザへと進み、12月にエルサレムを押さえた。またメソポタミアにも増援を送り、ティグリス川沿いの進撃を再開して、1917年2月にクートを再制圧、3月にバグダッドを制圧した。イギリス軍は再び勢いを取り戻し、1918年を通して、パレスチナ、メソポタミアの両戦線でオスマン帝国の中心部へと進撃を進めることとなった。
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1918年10月30日、オスマン帝国は休戦協定に合意し、第一次世界大戦における中東での戦いは終了した。


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