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General Liu Rifle のバックアップ(No.19)
特徴、アドバイス、補足
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主に個別の適応について記載されています。軽微な情報は省いてます。また全体の変更により仕様が変わっている場合がありますのでパッチ情報で確認して下さい。


ジェネラル・リュウ小銃(General Liu rifle)。ちゃんと訳すと劉将軍小銃。中国語だと劉將軍的半自動步槍といったところだろうか。
中国で初めて設計された半自動小銃である。
アメリカのプラット・アンド・ホイットニー社(Pratt & Whitney、以下P&W社)*1の協力の下、劉慶恩将軍の設計・主導によって漢陽兵器工廠*2で1914年ごろに開発された。
ボルトアクションとセミオートの切り替え機能を持ち、また半自動機構に現在は見られないガストラップ方式*3を用いるのが特徴。
本銃の開発は結局のところ二丁の試作品ができあがったにとどまるのだが、その原因は「そもそも銃を作るための工作機械がなかった」ことに尽きる。
元々漢陽兵器工廠は碌な工作機械を持っていなかったため、劉将軍はまず工作機械の購入から始めなければならなかった。
そこで白羽の矢が立ったのがP&W社であり、劉将軍は1914年4月には契約締結にこぎ着け、2年後に納入することが決定した。ここは順調。
劉将軍はその年の11月に漢陽入りしまだ使えそうな工作機械への習熟を進め、1916年には二丁の試作品が完成、トライアルを行った。
その結果判明したのが「今の中国の工業力では半自動小銃用のバネを作れない」ということ。
これは試作品の一丁に中国で手作業で作ったバネを用い、もう一丁はP&W社提供のバネを用いたところ、中国製バネのほうが射撃に耐えきれなかったことで明らかとなった。
とはいえそのようなことは劉将軍の想定の範囲内。ちゃんと事前に工作機械を発注しているのだ。工作機械が届けばすぐにでも中国初の半自動小銃を生産できる。全く問題ない。ここまでも順調。
しかしその後は踏んだり蹴ったりだった。肝心の工作機械が届かないのである。
劉将軍とP&W社が契約にこぎ着けてから2ヶ月後、第一次世界大戦が勃発する。
アメリカが参戦したのは1918年であるが、アメリカ陸軍・州兵はそれ以前から戦時体制を構築しており、P&W社はそちらの対応に忙殺されていたのだ。
遅れに遅れて1919年に工作機械が届くこととなったのだが、不運なことに劉将軍が貨物船に同乗したところ、貨物船が沈没。劉将軍は沈没事故の後遺症で半身不随になってしまう。
更に1919年に上海に届いた工作機械は1921年まで倉庫の肥やしとなり、その間に劉将軍が死亡してしまった。
結果主導者のいなくなった計画は二丁の試作品を作っただけで消滅してしまったのだ。
ちなみに倉庫の肥やしになっていた工作機械は鞏県兵器工廠*4に運ばれた。
鞏県兵器工廠はマウザー1907(Gewehr 98のモデルの一つ)のコピーモデルや、マウザー社協力の下設計された中正式歩槍(Chiang Kai-shek rifle)の生産を行い、やがては中国一の兵器工廠として名をとどろかせることになった。
漢陽ェ・・・。
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