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MONTE GRAPPA のバックアップ(No.28)
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概要
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| 分類 | マップ |
| 読み | モンテグラッパ(イタリアにある山の名) |
| 連合国 | VS | 同盟国 | ||
| イタリア王国 | オーストリア= ハンガリー帝国 | |||
ベネチアン・アルプスの誇る山々に囲まれて戦われる最終決戦のひとつ。
雲よりも高き山中で展開する山岳要塞の攻防戦は、鍛え上げられた兵士たちにとっても過酷極まる戦いとなった。要塞の巨大砲台群が、斜面の登はんを試みる敵兵たちの進攻を阻む。
この激戦においてオーストリア=ハンガリー帝国は優位にあったが、イタリア軍にその版図の奪還を諦める意図はなかった。
主に個別の適応について記載されています。軽微な情報は省いてます。また全体の変更により仕様が変わっている場合がありますのでパッチ情報で確認して下さい。
第一次世界大戦のイタリア戦線終結に繋がったヴィットリオ・ヴェネト
の戦いがモチーフになっている。この戦いの1年前にイタリア軍はCAPORETTOでオーストリア・ハンガリー帝国に大敗し、敗走させられる事態となったが連合国の支援を受けつつイタリア王国軍は再建した。オペレーションのボイスでも出てくる「ディアズ将軍」は実在した将軍で彼は、周りがだんだん勢いを失いつつあるオーストリア・ハンガリー帝国をさっさと追撃するよう求めるがそれを断り、十分な兵力を確保し反攻作戦への準備を入念に整えた。
渡河作戦
10月23日、因縁のカポレットの前日にピアーヴェ川の渡河を開始したイタリア陸軍は、まずオーストリア・ハンガリー陸軍の予備戦力を誘き出す為の攻撃を仕掛けた。ボロイェヴィッチ将軍は結束を失い始めていた墺軍を励ましながら防衛線を維持すべく尽力した。川の氾濫などに助けられた事もあって墺軍は初日と翌日の攻撃を耐え抜き、その敢闘にはディアズ将軍も感嘆の念を残している[7]。だが3日目となる10月25日に伊第10軍は渡河の重要拠点であるパパドポリ島を増水する川を乗り越えて奪取し、同地を起点にして攻勢5日目に対岸に上陸地点を確保した[8]。
同じ頃、フランス陸軍イタリア派遣軍団(フランス語版)司令官ジャン・セザール・グラジャーニ(フランス語版)中将率いる伊第12軍(仏陸軍との合同部隊)も別の箇所から渡河に成功し、右側面の伊第8軍が戦線の穴を押し広げた。伊第10軍は伊第12軍及び伊第8軍に援軍を派遣して牽制させつつ、墺第5軍に猛攻を加えて敗走に追い込んだ。10月27日に伊第10軍が防衛線を突破すると徐々に他の墺軍部隊も撃退され、伊第4軍、伊第8軍、伊第12軍も次々と前線を突破していった。ボロイェヴィッチ将軍は全軍に反撃を命じたが、戦意を失ったオーストリア兵は命令を拒否した[9]。10月28日、伊第10軍はピアーヴェ川対岸に確固たる橋頭堡を築き上げた。
ボロイェヴィッチ将軍はピアーヴェ川の防衛が最早不可能であると判断し、タリアメント川に向けて全軍退却を命令した。
戦線崩壊
10月28日、伊軍渡河と墺軍の総退却と同じ日にハプスブルク体制に反旗を翻していた民族の一つであるチェコ人勢力は臨時政府樹立を宣言した。10月29日には南スラブ人勢力がこれに続き、帝国本土は内乱状態に陥りつつあった。10月30日、墺軍の混乱を尻目に伊軍は第10軍を中心に戦線を拡大させ、4個軍が前線を大きく突破して24km後方にまで突出した。初期目標であるヴィットリオ・ヴェネトを含め、幅54kmにも及ぶ戦線が対岸に構築された。これによりピアーヴェ川のオーストリア・ハンガリー軍の防衛線は南北に分断され[10]、6日間に亘った戦闘でイタリア側は当初の目標を達成した。対照的にオーストリア・ハンガリー側は前線での苦戦もあり、帝国内の民族紛争は一層に加熱していった。
10月31日、ヴィットリオ・ヴェネト陥落の翌日には遂にハンガリー人(マジャル人)勢力が独立運動に加わり、オーストリア・ハンガリー帝国の解散を求めてブダペスト暴動が発生した(アスター革命)。タリアメント川に敗走していたオーストリア軍内ではハンガリー系兵士とオーストリア=ドイツ系兵士との対立が先鋭化し、少数派であるチェコ系兵士やスラブ系兵士の脱走も相次いだ。ディアツ将軍は敵軍が士気崩壊に陥っている状態を見逃さず、直ちに全軍へ追撃命令を下した。最初の追撃で5万名のオーストリア兵がイタリア軍に降伏[11]、捕虜はイタリア第11軍がタリアメント川近辺に到達した11月1日までに10万名にまで増えた[12]。11月1日からはイタリア海軍も攻勢に加わって戦線後方のトリエステを占領し、オーストリア軍後方を脅かした。
11月3日、イタリア陸軍はタリアメント川に到達、次の目標たるイソンヅォ川へ向かおうとしていた。
11月3日、戦線崩壊に陥ったオーストリア軍司令部はタリアメント川渡河を準備するイタリア軍司令部に白旗を掲げて休戦を求めた。長きにわたるイタリア王国とオーストリア・ハンガリー帝国の戦いに決着がついた瞬間であった。
| ▼ | マップ(クリックで展開) |
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イタリアで最も美しい登坂を持つとされ、二度の世界大戦の舞台となったグラッパ山(MONTE GRAPPA)をモチーフとするマップ。峠の片側が戦闘エリアとなっている。
各航空機、坂上で動きやすい軽戦車、航空機アンチの対空トラックが輝く傾向にあり、戦車・装甲自走砲トラックの活躍は限定的。重戦車は坂下の大きな防衛戦力となる。
戦闘エリアを区分するなら、進撃ルートに即した坂下のA・C・E拠点と坂上のB・D拠点に分ける2エリア区分。
もしくは接敵機会に即した、比較的安全なオーストリア側に近いA拠点・イタリア側に近いE拠点、中間の激戦区B・D・C拠点に分けた区分が考えられる。
自軍本拠地に近いAもしくはE拠点+坂上の自エリア側BもしくはD拠点+C拠点の早期確保・維持が基本的な戦略となる。
以下各拠点について詳細に述べる。

| 攻撃側 | → | 防衛側 | ||
| イタリア王国 | オーストリア= ハンガリー帝国 | |||
モチーフ解説の様に、イタリア王国がオーストリア=ハンガリー帝国との戦いに決着をつけるべく戦う。オーストリア=ハンガリー帝国の陣地は6つあり、イタリア王国の第二・第三大隊の増援はコンクエスト同様エアシップである。
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